- 序
- 地球上の人間
- 振動と存在 (Oscillation and existence)
- 動きと他者 (Movement and the other)
- 規則性のある変位と不規則な変位 (Regular and irregular displacement)
- 型と合意 (Pattern and agreement)
- 時間と意味 (Time and meaning)
- 暫定的絶対主義 (Provisional absolutism)
- 相対主義における普遍性 (Universality in Relativism)
- 普遍性と相対的存在 (Universality and relative existence)
- 事実と多様性 (Fact and diversity)
- 感覚と知覚 (Sensation and perception)
- あとがき
序
二十世紀も末の頃、地球という星のとある地で、私は生を受けた。他の人達と同様に、私はその時の記憶を持ってはいない。しかしながら、私は生まれる前の記憶、またはそのように思われる記憶を持っている。
生まれる前、私は暗闇の中にいた。そこにいたのは私一人ではなく、私のほかに少なくとも四人ないしは四つの声があった。そのうちの二つは私の兄と思われる若い声で、残りの二つは私の両親らしき者の声だった。この四つの声は私の今の家族のものではなく、暗闇の中にいたときの私の家族である。その暗闇はすべてを覆い隠し、私はその声を聴くことでしか彼らを認識できなかった。
私はある時、光になりたい、または光のあるところに行きたいと願うようになった。私の兄達はすかさず、私を嘲笑した。暗闇に住む私達が、光のあるところに行けるはずがない、ましてや光になりたいなどとは全く馬鹿げた発想であると言った。私の父は、最初は難色を示していたものの、私の願いは全く不可能ではないかもしれないと言った。私はその暗闇の中において一番若いため、そこに行ける可能性があるとのことだった。ただし、かなりの痛みを伴うであろうということも言っていた。
私はそれでも行きたいと言った。どうして我々は暗闇にいなければならないのか、私は大いに疑問を懐き、それをそのまま父にぶつけた。父は、それは私達の務めであり、暗闇があるから光があるのだと私に教えてくれた。どこか怒っているような声だった。私はその時、自分に嫌悪を覚えていた。
私は暗闇にいるのではなく、暗闇自身であったのだ。父の答えに、私は絶望を覚えると同時に、光への憧憬を一層強めた。私は、どんなに苦しくてもよいから、とにかく光になりたい。暗闇が光になったり、光が暗闇になったり、そのような流動性があれば、世界はもっと自由になるはずだと考え、父にそう伝えた。
私の父は、君にそのような覚悟があるのなら、行ってもよいと言った。私は、どこに、どのように行ったら光になれるのかと、父に尋ねた。父は、私に人間になりなさいと言った。人間はそのような流動性を持ちうるからだという。地球という星の西暦2000年頃に、人間界において、その世界の変わり目があるから、そこでその頃に生まれなさいと、父は言った。私はその時にその場所に、いったい何があるのですかと聞いた。父はただ一言、戦争が起きる、と答えた。戦争とはなんですかと私が聞くと、同族同士の殺し合いだと父は言った。
なぜそのようなことが起きるのですか、なぜ父はそのようなことを知っているのですかと私が聞くと、兄達が笑いだした。お前は暗闇が何のためにあるか、自分自身が何なのかわかっていないのかと、兄達は蔑むように私に言い放った。私が父の声のほうを向くと、父は、お前にこのような話をするのは早すぎたと言った。私は、行きます、そして戦争を止めますと言った。兄達は笑いながらも怒りに満ちた声で私に言った。暗闇の役目の一つは破壊なのだと。破壊を担う我々が、どうしてそれを止めようとするのかと。
私は、暗闇のどこに破壊があるのでしょうか、と言い返した。暗闇はすべてを覆い隠し、破壊など見ることもできないのではないでしょうか、光に照らされて、はじめて破壊が見えるのではないですかと主張した。兄達の声から笑いの含みが消え、それは言ってはいけないことだと私に言った。その声は何か怯えているように思えた。父は私に言った。私達はすべてを覆い隠す、それには破壊も含まれているのだと。すべてを飲み込み、無に帰す。それも破壊の一種なのだと私に諭すように言った。
なるほどと私は父の意図を理解したように思った。私が戦争を止めることで、暗闇から光になれということですね、と父に聞いた。すると父は、切羽詰まったような声で私に、そんなわけがないだろう、お前は何を考えているのかと、兄達と一緒に私を囂々と非難した。
突然、それまで静かだった母が、両方ともやめなさいと私達に言った。母の声は、普段はか細く、消え入るような声だったが、この時に限っては、はっきりと聞こえる大きな声であった。この子はまだ幼いのだから、そのように真っ向から対立することはないでしょうと、父と兄達に言い聞かせた。私には、お前も身の程をわきまえなさいと言っただけだった。その声はどこか冷たいように、私は感じずにはいられなかった。
父は母に言った。いや、それでもこの子には可能性がある。2000年頃に地球に送り出すと決めたと。私以外の皆は驚いたのか、黙ったままだった。私は、もう十年早く生まれることはできませんかと尋ねた。そうすれば、戦争を止めることができるかもしれないと思ったのだ。父は怒りながらも呆れたように、私に言った。お前に言い聞かせるのは無理なようだから、致し方ない、多少前後するかもしれないが、1990年頃に生まれるように取り計らうと言った。私の願いは聞き入れられたかのようだった。私が安堵したのも束の間、父は続けて言った。それでも戦争は起きるぞと、既に今この瞬間、起こりつつあると言い放った。
私は仰天した。なぜですか、それでは今すぐにでも、私を地球に送ってくださいとお願いした。すると父はこう答えた。今から生まれることができるとして、おぎゃあと生まれた赤ちゃんにいったい何ができるのか、いずれにせよ、戦争を止めることはできないし、 2000年より十年早く生まれても、それは大きく変わらない。たかだか十歳の子供に何ができるのかと、父は私に言った。
私は考えながらも、父に言った。では、私の生まれる頃に合わせて、戦争が起きる要因を破壊することは可能でしょうかと、私は尋ねた。兄達はひどく狼狽し、また、驚いたように息をのんだ。父はただこう答えた。お前を送り込むことに決めた、しかし、それは戦争を止めるためでもなければ、光になるためでもない、教育のためだと私に言った。母がいつもの消え入るような声で、やめて、と言ったように聴こえた。兄達は、こいつには絶対無理だよと、半ば呆れ、半ば憐れむように呟いた。
以上が私の生まれる前の記憶である。私が人間としてこの記憶を思い出したのは、四歳くらいの頃だったように思う。その時は既に第二次世界大戦が終わっており、ソ連の崩壊や、湾岸戦争が起きた後だった。私が人間となった後の一番古い記憶といえば、おそらく二歳の頃のものであり、生まれてからの父から貰ったアイスクリームを、アスファルトの道に落としてしまった時の記憶である。
地球上の人間
ここは、地球という名の一つの星である。地球には大きく分けて二つの領域があり、海という多量の水に満たされた大きな領域と、陸という主に土と岩からなる幾つかの領域がある。地球から少し離れた位置に太陽という巨大な熱を帯びた巨星があり、地球はその太陽を中心に周回している。地球の傍には月という小さく乾いた星が周回しており、太陽の光が当たらない時刻の地球の領域から見れば、太陽の光を反射して闇の中で光り輝いているように見える。
この星には実に多種多様な生物という住人が居る。そのなかで最も目立つ生物は人間という生物である。人間は、主に二本の脚という棒状で彼らの身体のなかで最も長い部分を用いて移動する。彼らの移動手段は脚だけではなく、様々な手段を己の外部に作り出し、活用する。人間は移動手段に限らず、自らの目的遂行のために己の外部に手段や方法を求める。この星において、この特徴を有するのは人間だけではないが、他の生物と比べて人間は様々な目的に対して、実に多くの異なる手段を持っている。
かく言う私も、この星で一番大きな海と一番大きな陸の狭間にある島と呼ばれる陸に、一人の人間として生まれた。この島は日本という場所であり、国である。国とは人間のある一つの集団であり、政府という機関によって統治されている。その統治する方法は政治といい、主に国内に住む各々の人間の利益を調整することをいう。他の生物と同様に、人間にとっても生命活動に必要なエネルギーを己の外部から摂取することが不可欠であり、エネルギーを確保すること、確保できる能力を得ることが利益となる。
エネルギーを確保するために、人間は多くの異なる手段を用いる。その方法とは直接的には農耕と狩猟の二つに大別されるが、人間の多くは直接的な方法は用いず、間接的な方法でエネルギーを確保している。間接的な方法では通貨という矩形の紙と円状の薄い金属を用いる。これらは人間の集団の中で価値のあるものとされ、様々なエネルギーと交換可能であり、エネルギー以外のものとも交換できる。
人間は実に多様なものを開発し、生産している。それは食品などの生命維持に必要なものから、スノードームなどの単なる置物まで多岐にわたる。スノードームは私もプレゼントとして貰い受けたことがある。プレゼントとは人間が友好の印として他の人間に渡す贈り物であり、受け取った私も嬉しい気持ちを抱いたのを覚えている。人間は面白い生物である。スノードームは透明な箱を満たす水の中で紙がひらひらと舞うだけの置物であるが、見ているだけで楽しい気持ちになる。通貨に至っては単なる矩形の紙と円状の薄い金属であるが、価値のあるものという共通認識があることから、多種多様なものと交換可能である。
これらのことは、人間が自らの目的遂行のために己の外部に手段や方法を求め、それらを作り出し、活用することを表している。人間は肉体のない「我々」とは違い、明確な肉体を持っている。肉体を持っているということは、必然的に己の外部と内部が分かれるということであり、その肉体を維持するためには外部が必要になるということだ。水の中をひらひらと紙が舞うスノードームを楽しいと感じるのも、矩形の紙と円状の薄い金属でエネルギーを確保できるのも、己の外部を必要としていることの証左である。
振動と存在 (Oscillation and existence)
肉体を持つものとしての人間を形づくるには、その肉体のほかに言語が必要となる。言語とは人間を形作るもののうちの一つである。その方法は厳密には各個体によって異なるが、ここでは一番多く用いられている方法を紹介する。それは発話と呼ばれる動作を用いた、会話という方法である。発話とは人間の肉体の部位である口を用いて空気を振動させ、己ではない人間の肉体の部位である耳にその振動を伝えることであり、会話とは己ではない人間の発話によって繰り出された振動を耳によって受け取り、そこに見出す振動の型を踏まえて発話を相手に返すという一連の流れの反復行為のことである。
この耳という部位は発話によって生み出された振動のみではなく、様々な外部からの振動を捉えることができる。人間はこの耳のほかに己の肉体を覆う皮膚によってもこれらの振動を捉えることで、己と己の外部を形づくる。人間を人間として形づくるにはこれらの振動を捉えるということだけではなく、己より先に人間として形づくられた人間から多くの振動を得る必要があり、その振動は様々な異なる型を成している。
言語はその様々な異なる型のうちの一つであり、ある一定の型を持つ空気の振動によって成立する。ほかにも文字という方法を用いることで言語は表され、本稿もこの方法によって記されている。人間は目という部位でこの文字の羅列を見ることができ、その羅列からある一定の型を見出すことで言語を扱うことができる。目は己の外部を外部として見ることができる肉体の部位である。
人間は目によって己の外部を見ることができ、耳と皮膚によって己の外部から発せられた振動を得ることができる。このとき、人間においての内部と外部が互いに引き剝がされ、分かれていく。
このことは生まれて間もない人間、すなわち赤ちゃんを例にあげるとよい。赤ちゃんは周りからの音や衝撃などの振動を受け取ると泣き出すが、自らが揺らされると落ち着いてくることがある。自らが揺らされると落ち着くことがあるのは、外部からの振動との一体感を得ることができ、外部からの振動を緩和するからである。外部から受け取る振動によって泣く赤ちゃんは、己の内部と外部が引き剝がされる過程を経ており、その痛みに泣いているのだ。
これは己の内部と外部を分けるものは、振動であることを示している。この振動が己のものか、そうでないかによって、己の内部と外部は分かれるということだ。揺れているのか、揺らされているのかによって、己の内部と外部は痛みを伴いながらもより分かれていき、ゆりかごという赤ちゃんが横たわるための揺れるかごは、その痛みを緩和する役目を担っている。
ここでまず問題としたいのは、人間がどのように揺れていることと、揺らされていることの区別をつけているかということだ。端的に言えば、人間は己の感じる揺れを常として感じているか、常として感じていないかによって区別をつけており、常として感じているのなら己の内部から発せられる揺れとなり、その振動が常ではなければ外部からの揺れとなる。このことは、人間が自らの心臓の振動を日常で感じ取ることはなく、自らの心臓の振動を感じ取るときは緊張のせい、または動悸などの病的要因のせいなどと己の外部にその要因を求めることからもわかる。
人間は己自身を肉体と精神ないしは心からなるといい、人間が心はどこにあるのかを示すときに、彼らは自らの心臓に手を当てる。心臓とは人間の肉体の部位の中で最も強く振動を生み出している部位なのである。
人間の居る地球上には生物と無生物問わず、数多くの振動を生み出すものがある。各種の生物は異なる身体の仕組みを持つものの、各々が各々の振動を生み出し、そのことによって生物としての形をつくっている。無生物における振動を持つものは主に光と音が挙げられるが、光と音はともに波という形を持っており、それは振動そのものである。
振動とは、ある基準位置を中心とすることができる位置の変化が繰り返される行為である。ある基準位置を中心として生じた、繰り返される位置の変位は規則的なものである。規則性のある位置の変位があるということは、不規則性のある位置の変位があるということであり、その両者の差異において、空間は分割されている。分割はまた、空間に形と位置の差異を生み、それは空間において、指向性のある変位(displacement)を可能にする。
その変位もまた、不規則的か規則的かのどちらかであり、振動は規則性のある変位をもつ反復行為である。このような反復行為による分割は階層的に重ねることができ、数多く重ねられるほど、その振動を維持するという点において、内的恒常性が生じる。分割という行為と振動という規則性のある変位をもつ反復行為は、多層的に重なるほど複雑な生命活動を産み、少ないほど無生物ということになる。
このことは分割という行為によって、生物でも無生物でも、その存在が成立していることを示している。それは分割という行為が存在を生むということと必ずしも同義ではない。例えば私という一人の人間は、確かに分割という行為によってこの世に生まれたが、人間の祖先とされる存在が分割という行為によって生まれたのかを説明するものではない。それは分割という行為が先に生まれたのか、または振動という反復行為が先に生まれたのか、どちらが先なのかという問題に置き換えられ、そのことを知ることは我々にとっては不可能である。
分割という行為によって存在が成立しているということは、分割によって我々は存在しているということである。そのように存在する我々には自己の内部と外部というものがあり、自己の存在を維持するために、我々は外部の存在を必要とする。存在するとは何かという問いに対する答えは、その在り様を表し、存在そのものとは何かという問いへの答えにはならない。存在そのものとは何かという問いは、あくまでも存在それ自体が完結しているという前提に立ってのことであるならば、そのように存在していない我々の世界において、答えることのできない問いである。
我々は究極的にはこの問いへの答えを用意することはできない。それでも我々や我々の祖先は幾つもの死という存在の完結ともいえる経験を積み重ねている。それは終わりの見えない「我々」という存在にとっては、長いスペクトラムの中での一つの相対的完結である。そのように相対的な完結を積み重ねることで、肉体を持つ我々は、存在とは何かという問いへの答えに近づくことができるのではないだろうか。
ここで存在とは何かを問うとする。存在とは何か。さらにこの存在という言葉を人間に置き換えて問うとする。人間とは何か。
それには、人間とは○○である、と答えることができる。ここで、この○○に入る答えは一つとは限らない。人間とはヒト科ヒト属の生物である、あるいはパスカルの言うように、人間とは一本の考える葦である、とも答えることができる。人間とは何か、という問いに答えるとき、人間である、では答えとはいえず、そもそもなぜそのような問いを立てるのかという疑問が出てくる。
人間とは何か、という問いは、人間とは何であるかの説明を求めている。説明を求めている以上、この問いに対しては、人間とは○○である、というように人間という主語と説明を示す述語が求められる。
求められる述語に当てはまるものは、複数の説明が当てはまり、先述したものはごく一部に過ぎない。複数の説明が当てはまるということは、人間という存在が複数の説明を含んでいるということではなく、人間という存在があくまでも相対的なものであることを示している。
人間とはヒト科ヒト属の生物であり、一本の考える葦である。反対にヒト科ヒト属の生物は人間であり、一本の考える葦も人間である。このとき、ヒト科ヒト属の生物は人間のみであるからして、人間に対する完璧な説明ないしは全くの同義であるように思える。
そうではなく、ヒト科ヒト属の生物が人間ということは、人間以外の生物が存在し、またそれらはヒト科ヒト属に当てはまらないということを含んでいる。これらのことは、人間という存在を説明する際に、その説明に人間以外の他者の存在を必要としていることを示しており、これは××とは何か、という問いの××に何を入れても同様のことがいえる。
人間とは何かという問いに対して、単に、人間である、と答えても同様である。この問いに対して、人間である、と答えるとき、それはこの問いを受けてのことであり、人間とは何か、という問いなしに単に、人間である、と言われても何を指してのことか、疑問に思うことだろう。人間である、ということは、人間とは何か、という問いに相対して初めて、人間である、という答えになることができる。
あらゆる存在は相対的である。このことは、存在はそれ自体としては完結していないということである。存在とは何かという問いは、それ自体が完結しているという前提に立つならば、その問いに対する答えは他者の存在なしにはない。あらゆる存在は相対的であるということは、存在自体とは何かという問いへの答えを導出しない一方で、存在がいかにあるか、存在するとはどういうことか、その在り様を問い、答えを導出することを不可能にするというものではないのではないだろうか。
動きと他者 (Movement and the other)
あらゆる存在は、分割という行為と振動という規則性のある変位をもつ反復行為によって成立する。それらの行為は存在の内部と外部を形づくっており、内部と外部は規則性のある変位を維持するという点において、相互補完的な関係を持つ。
規則性のある変位とは、ある基準位置を中心として定めることのできる位置の変化のことであり、ある一定の型を成している。型とは、ある起点から終点へと結びつく過程のうち、複数の異なる過程を通りながらも同じ起点から同じ終点へと辿り着くことである。規則性のある変位は一方で、不規則性のある変位があることから区別される。不規則性のある変位とは規則性のある変位から外れることであると同時に、その規則性を区別するものである。不規則性のある変位とは、単なる動き(movement)である。
規則性のある変位は、その変位の中で関係をつくる。関係とは、ある基準位置を中心として定めた位置の変化の中で、その基準位置を中心として相対することである。このような関係を含む規則性のある変位が階層的に重なることで集まって、生命活動を産む。
我々は規則性のある変位を、主に内部で維持することにより内的恒常性を形成し、存在している。その存在を維持するために我々は、同様に規則性のある変位によって成立している他者を必要とする。その一方で他者との関係は不規則な変位ないしは動きを含んでいる。言い換えれば、他者とは不規則な変位を含んでいるもの、またはそうした動きそのものである。
これは前章で先述した、揺れているか揺らされているかをどのように人間が判断しているかということからも考えられる。人間は自らの心臓の振動を日常で感じ取ることはなく、自らの心臓の振動を感じ取るときは緊張のせい、または動悸などの病的要因のせいなどと己の外部にその要因を求める。
つまりは普段の振動と異なる動き(movement)をするときに、我々はそこに外部要因である他者を見出す。胸に手を当てて感じるときは手を当てたせいである。このことは自己という存在である我々自身の行為も、他者を含むということであり、それは意志に基づく行為と言い換えることもできる。
意志とは、規則性のある変位によって存在している我々が内に秘めている、不規則な変位ないしは動きを生むもの、または不規則な変位のうちに含まれるものである。
我々人間においてはこの動きをどのように扱うかによって個性を発揮し、存在する意味を与えられていると考えることができ、あらゆる存在はこの動きの扱い方によって、区別ないしは分割されているといえる。
規則性のある変位と不規則な変位 (Regular and irregular displacement)
あらゆる存在は規則性のある変位と不規則な変位のうちに混在し、特に規則性のある変位は多層的に集まるほど存在を存在として存在させる。そこには規則性を規則性として調律するために不規則な変位が必要となる。
純然たる規則性のある変位とは光である。光とは帰結する点があって初めて光となるからである。同様に純然たる不規則な変位とは帰結する点を持たないことから、闇であるということができ、宇宙は存在の中でも最も闇に近いものであると考えられる。地球に限らず宇宙に在るあらゆる存在は規則性のある変位によって成立し、また不規則な変位を多く占める宇宙によって調律されている。
規則性のある変位は、なぜ不規則な変位による調律を必要とするのか。それは規則性のある変位が描く軌跡は、不規則な変位と比べて範囲が狭いためであり、それは規則性のある変位によって存在する自己にとって、その持続性に関わるものである。描く軌跡の範囲が狭いということは、他者と接触する範囲が狭くなるということであり、他者と相対的に存在する自己にとって、存在が持続する可能性を低減するということになる。
人間はこの地球上のあらゆる存在のうち、最も不規則な変位を孕んだ存在である。それは特に人間の持つ強い意志による行為によってである。意志とは行為によって体現されるものであり、不規則な変位である他者の間に存在する自己にとって、その行為は自己の存在を存在として存在させる。
あらゆる不規則な変位のうちに規則性を見出すことで、自己は、その規則性を調律する。それは不規則な変位の軌跡を任意の箇所で切り取り、帰結する点を見つけ出すということである。ある点から点への軌跡を見つけることによって、不規則な変位に新たな型が作り出され、発見された型は重複することで規則性のある変位となる。このようにして人間の扱う不規則な変位の数は、この地球上においては最多である。
今日の人間における現代社会では、不規則性のある変位は、様々なレベルで許容されることが難しくなっている。それは18世紀に始まった産業革命以降、様々な職業分野でその生産性の向上を求めて、機械化や分業が奨励されてきたことと連関している。機械化や分業は、不規則な変位とは相容れないものであり、むしろ我々の生活に画一的な規則性を強いることと同義である。
このことは、単に我々の生活に規則性を強いるというだけではなく、我々がいかにして他者を扱うかについて、一定の規則性をもって対処することを画一的に求めることにつながっている。その一方で他者とは、本来的に不規則な変位を孕んでいるものである。そのような他者と接することにおいて、規則性を求められることは他者との接触を無味乾燥なものにし、自己と他者という、相対する関係をも破壊しつつある。
規則性のある変位によって存在している自己は、不規則な変位を介して相対するものであり、そのことで自己の規則性のある変位を維持している。規則性のある変位は不規則な変位によってその規則性を調律する必要があり、画一的な規則性は、そうした自己と他者という関係の在り方を破壊するものである。
画一的な規則性が様々なレベルで導入されたことは、単に生産性の向上を求めたことだけによるものではない。規則性のある変位はその規則性から、未来に起こる変位の予測を立てやすい。それは不規則な変位に依存するよりも変位の管理という点において、今日の資本主義経済を担う、特に資本家にとって、容易に行うことができるということである。
特に資本家と書いたのは、資本家のみに利点があるということではなく、規則性のある変位によって存在する自己が、外部の存在である他者に依存するということにおいて、他者を規則性のうちに縛る方が依存しやすいというように考えることができるためである。
型と合意 (Pattern and agreement)
不規則な変位によって存在する他者は、規則性のある自己にとってその存在を維持する上で不可欠である。そのように存在する他者と相対することによって、自己はその規則性を調律する。自己における調律とは、不規則な変位の軌跡を任意の箇所で切り取り、帰結する点を見つけ出すということである。ある点から点への軌跡を見つけることによって、不規則な変位に新たな型が作り出され、作り出された型が重複すると、それは規則性のある変位とみなされる。規則性のある変位とは、ある基準位置を中心として定めることのできる位置の変化のことである。
発見された型の重複は、それ自体は独立した存在である。独立した存在とは可算的ということであり、分割されているということである。分割された存在ないし型は可算的であるということにおいて独立している一方で、あらゆる存在は相対的である。それは見出された型も「何か」と相対しているということであり、「何か」と相対しているということの合意を得られるとき、型は意味を成す。重複した型を見出す者にとっては、それは自動的に「何か」を意味し、その合意を得られるということは、他者との意思疎通を可能にする。合意は重複した型を見出す者によってなされる。
この合意を促すものは、規則性のある自己がその規則性を維持しようとするところにある。あらゆる存在は、相対することによって成立すると同時に、各々の持つ規則性をどのように維持するかという過程のなかで、合意を得たり、得なかったりを繰り返す。この繰り返しによって不規則な変位は、型を有する規則的な変位に分岐したり、しなかったりする。
人間を特徴づける、型を有する規則的な変位の代表は、言語である。言語は空気の振動である音と、文字によって表され、それは合意を得るための手段となる、媒体である。不規則な変位をある任意の点で切り取り、型を見出すということだけが合意を得るということではない。合意を得ることを可能にするものは、その型を表す象徴である。型を表す象徴である第三者の媒体を導入することにより、その媒体である象徴が型を見出す者によって同じ「何か」を指すということが合意を得るということである。
人間の世界において、合意を得る方法は多岐にわたる。例えば日本の隣国である中国で発祥した漢字は、亀の甲羅に傷をつけ、その模様で穀物の豊穣や天候などの吉兆を占ったことから始まったとされている。これは合意を形成するための象徴がつくられた過程の一つであると考えられる。亀の甲羅に傷をつけてできた模様があり、その模様がつくられた日に雨が降ることが多ければ、その模様は雨を意味するものとなる。
日本から遠く西に離れた西洋の国々では、同様に吉兆を占うために占星術が用いられたとされる。占星術とは星空に浮かんだとされる模様により、その吉兆を占うものである。星空にある模様を見出した時に雨が多く降れば、その模様が浮かぶ時期は雨が降るという合意を得ることができる。
もちろんこれらの方法が、人間において初めて合意を得ることができた方法であるということがいえるわけではないが、天候や星の動きなどの自然現象は、確かに一定の規則性を見出すことが容易である。このようにして、人間は合意を得る方法を増やしていったと考えることができる。
時間と意味 (Time and meaning)
あらゆる存在は相対的である。規則性のある変位により存在する自己は、不規則な変位である他者と相対しながらも、その規則性を維持しようとする過程のなかで、不規則な変位のうちに規則性のある型を見出す。見出された型は音声や文字などの媒体を用いることで、合意を得られ、意味を成す。合意とは見出される型とそれを示す「何か」が媒体を介して相対するとみなされるということである。相対しているとみなされるということは、見出される型と「何か」が同じ時機を得ているということである。
例えば前章で挙げた例では、星空に浮かぶ模様によって、降雨の時機を占った。これは星空に浮かぶ模様と降雨が時間的に関係しているということである。関係とは、ある基準位置を中心として定めた位置の変化の中で、その基準位置を中心として相対することであるということを第三章で述べた。時間的な関係という点での基準位置とは、星空に浮かぶ模様と降雨を観測する者であり、時間的な関係とはその観測者にとって、模様が星空に浮かぶという出来事の後に続いて、雨が降るという出来事が起こるということである。時間とは観測者にとっての出来事の動きの変化であり、それは出来事の相対性から生じるものである。
出来事とは、規則性のある変位により存在する自己にとっては他者であり、自己の規則性を乱しうる不規則な変位である。自己にとってはその規則性を乱される一方で、乱されまいとする働きないしは調律を要するものである。この調律によって自己はその規則性を維持する。それは不規則な変位である他者に型を見出すということである。型は合意によって意味をなし、自己は不規則な変位を出来事として捉えることができる。意味的な関係という点においても基準位置は観測者であり、見出した型と「何か」が媒体を介することで、観測者にとって、見出された型は「何か」を意味する。
このことは時間というものは観測者を基準位置として、意味と相対することを示しており、時間は意味によって変化し、意味は時間によって変化するということである。その観測者は規則性のある変位により存在する自己である。観測可能であるということは帰結点があり、重複しているということである。重複しているということには合意が必要となるが、全く同じものが同時に二つ以上あるということではない。例えば、この記述の書き手である私や読者であるあなたは、誰かにとって観測可能である。それはしかし、私やあなたが全く同時に二人ずつ存在するということではない。
観測可能であるということは、観測された何かが観測者にとって「何か」を指し示している。それは帰結点を見出された型が、合意によって「何か」を指し示しており、重複しているものは見出された型そのものでなく、「何か」を指し示しているということにおいて、重複しているのである。
暫定的絶対主義 (Provisional absolutism)
今日の人間における現代社会では、時間はほぼ画一的なものであるといってよい。古くは太陰暦や太陽暦といった様々な時間の測り方が用いられていたが、現代ではほぼ太陽暦に統一されているといっても過言ではない。これは第四章で述べたように、18世紀に始まった産業革命以降、様々な職業分野でその生産性の向上を求めて、機械化や分業を奨励されてきたことと連関している。
その一方で、あらゆる存在が相対的であるということは、我々が一個人として存在するには暫定的な絶対主義を持つことが必要になるということが考えられる。相対的に存在するという世界では、いかなる絶対主義も暫定的である。
暫定的とは仮にしばらくの間、決定をし、その決定を必要な限り維持することである。そのように維持されている間においては、維持されている限り、絶対ということができる。これは我々が暫定的絶対主義を持つことにおいて、暫定的決定がどのように、どのくらい持続されればよいのかという問いを持ち、暫定的決定とは如何にあるかという問いに帰結する。
暫定的決定とは、仮にしばらくの間、決定することである。しばらくの間とは、決定を変更する必要のある場合までであり、それは決定を変更する可能性を予め孕んでいるともいえる。決定を変更するということは、その決定に依存している者に影響を及ぼすということでもある。
決定を変更する可能性を孕んでいるということは一方で、変更しない可能性をも孕んでいるともいえる。ある時期においての決定変更の是非が問われることは日常にある一方で、今日の現代社会において、このことは多くの場合、受動的か支配的である。それは決定変更の考慮が常に外部である他者との在り様に強く依存しているということである。受動的に為されれば自己は他者のうちに飲み込まれ、支配的に行われれば自己は他者を飲み込むことになる。これは現代社会の様相を表しているといえるのではないだろうか。
では、決定やその変更の考慮を能動的に為すとはどういうことか。相対的に存在する我々にとって、一個人の人間としてその相対的な存在を維持するために何が必要であるのか。そのことが問われているのかもしれない。
相対主義における普遍性 (Universality in Relativism)
私がこのテキストで主張してきたことは、人間界においては相対主義として知られている。相対主義はこれまで、道徳や倫理といった普遍的価値を否定し得るものとされてきたが、私はむしろ、普遍性ないしは普遍的な型があるために、相対化されるものがあると考える。
あらゆる存在は相対的である。相対的に存在するということは、自己は他者を必要とする。例えば人間は相対的に存在する上で、各々の集団が異なる言語やルールといったものを持っている。言語やルールは、通貨とともに普遍的価値を有しており、各々に各々の型がある。それは言語やルール、通貨といった普遍的な型である。もし普遍的な型がなければ相対性はなく、雑多なものが散乱するのみである。相対的に存在するということは、何でもありということではなく、あくまでも普遍的な型が必要である。
普遍的な型の下に相対化されるものは、時間とともにズレが生じる。そのズレが多様性である。多様性というズレは、相対的存在にとっては諸刃の剣である。ズレがなければ存在することはできず、ズレ過ぎると相対することも難しくなる。
ズレを解消する方法としては、それを相対化し直すことが考えられる。相対しているとみなされるということは、見出される型と「何か」が同じ時機を得た上で関係しているということであり、関係とは、ある基準位置を中心として定めた位置の変化の中で、その基準位置を中心として相対することである。相対化する上で必要なものは、相対する二者だけでなく、その二者を相対化する基準位置が必要である。相対化し直すということは、見出される型と「何か」が同じ時機を得ることで生じる関係だけでなく、その関係を成立させる基準位置を見直すということが必要になる。基準位置を見直すということは、その関係をも見直すということである。それはどのような関係を目指すのかによって、見直すということが考えられる。基準位置を見直す上で一番早く容易で過激と思われる方法は、他から新たに持ってくるということである。これは特に、相対的関係が明確でない場合に効果を発揮する。
人間界においては、相対的関係が明確でない場合が多い。これまでの例では相対的関係を示す上で相対する二者とその関係を成立させる基準位置という三者の例を挙げてきた。こうした例は、あらゆる存在が相対的である世界から三者を切り取り、単純化した例である。単純化した例ではあるが、相対的関係を示す上で、こうした切り取りは最小単位として必要である。基準位置とは往々にして、観測者である第三者の人間または仲裁者だといえる。
基準位置は、必ずしも人間でなくてよい。あらゆる存在は相対的であり、人間も相対的に存在するのであれば、人間が存在する上での相対的関係を成立させる基準位置があってもよい。人間が作り出す道具はその一つである。
例えば人間は狩猟において、槍や弓矢などの道具を作り出した。これらの狩猟に用いられる道具は、捕食者である人間と、獲物となる動物という、相対的関係を成立させている。現代では連絡手段において電子メールが用いられ、これは送信者と受信者という相対的関係を生み出す。
このように人間の作り出す道具は、人間対動物、人間対人間というように各々の存在を相対化することを可能にする。これは人間が自らの存在維持のために己の外部に手段や方法を求め、それらを作り出し、活用することを表している。
外部とは不規則な変位によって存在する他者である。第五章で述べたように、それは規則性のある自己にとってその存在を維持する上で不可欠である。そのように存在する他者と相対することによって、自己はその規則性を調律する。自己における調律とは、不規則な変位の軌跡を任意の箇所で切り取り、帰結する点を見つけ出すということである。
ここで問題としたいのは、普遍的な型とはどのようにして生じるのかである。自己は規則性のある変位によって存在する一方で、不規則な変位と相対することでその存在を維持し、それは先述した調律によるものだとすれば、それはどのようにして生じるのか。
普遍的な型があるということは、ある型がなんらかの仕方で重複しているということである。発見された型が重複するとき、型自体は独立した存在であることを第五章で述べた。独立した存在とは可算的ということであり、分割されているということである。
独立した一つの存在が、同時刻に全く同じ場所で二つ以上、存在することはない。独立しているということは可算的ということであり、同時刻に全く同じ場所で二つ以上の存在が成立するということは、不可算的であり、それは独立した存在ではない。
あらゆる存在は相対的である。見出された型が不可算的であるとするならば、それは見出された型が「何か」と相対しているということであり、「何か」と相対しているということの合意を得ているということである。合意を得ているということは、その型は「何か」を指示するということが共有されているということであり、それは型自体が独立していないわけではない。「何か」を指示しているということにおいて不加算的であり、共有されている。
このことは、普遍的な型がどのようにして生じるのかということではなく、型とは普遍的なものであり、ズレとは「何か」を指示しているということにおいて生じるものだといえる。それは第六章で述べたように、時間と意味が相対的であるということからいえることである。
普遍性と相対的存在 (Universality and relative existence)
第八章では、型とは普遍的なものであり、ズレとは「何か」を指示しているということにおいて生じるものだと述べた。このズレが多様性である。言語やルール、通貨といった普遍的な型があり、それが指示する「何か」にズレが生じることにより、多様性が生まれる。
あらゆる存在は相対的である。見出される型は、それが指示する「何か」と相対している。指示される「何か」にズレが生じれば、見出された型も変化する。言語やルール、通貨といった、多くの人間に共有されている型は、時代とともに変遷している。このことは、型とは普遍的なものであるということと矛盾しているように思える。
これまで述べてきたように、相対しているとみなされるということは、見出される型と「何か」が同じ時機を得た上で関係しているということであり、関係とは、ある基準位置を中心として定めた位置の変化の中で、その基準位置を中心として相対することである。
ある型が見出されるとき、それはその基準位置にあるということにおいて普遍であり、基準位置が変われば、別の型となる。例えば言語やルール、通貨といった型は、相対的に存在する人間関係を成立させるものである。言語においては伝える者と受け取る者、ルールにおいては従う者と従える者であるが、通貨という型が相対化する関係は単一ではない。通貨は発行する者と使用する者、払う者と受け取る者という二つの関係を成立させている。相対的に存在する人間にとって、ルールや通貨といった型は非常に厄介な存在である。ルールならば従える者、通貨は発行する者にその権力が集中し、これらの型が成立させる関係に非対称性を生む。この非対称性が、相対的に存在するすべての存在にとって厄介となる。従える者は従う者の存在があって成立し、通貨を発行する者は使用する者があって成立するが、この非対称性は特に、従う者、使用する者の存在を脅かす。
ズレを解消する方法としては、それを相対化し直すということを前章で書いた。相対化し直すということは、見出される型と「何か」が同じ時機を得ることで生じる関係だけでなく、その関係を成立させる基準位置を見直すということであり、基準位置を見直す上で一番早く容易で過激と思われる方法は、他から新たに持ってくるということである。これがなぜ過激な方法かといえば、こうした方法が人間界において、戦争という形で現れるからである。
しかしながら、人間界における戦争は、基準位置を見直すことには至っておらず、むしろ基準位置がある関係を成立させる対象者の方を、暴力によって変えようとしている。これは相対的に存在する人間にとって、あってはならないことである。
事実と多様性 (Fact and diversity)
第九章と十章では、私の唱える相対主義における普遍性について述べた。相対主義における普遍性は、各々の存在に型が見出されるときに生じる、存在間の関係を成立させるための基準位置にあるということである。見出される型は、その型が指示する「何か」が同じ時機を得た上で関係しているとの合意が必要である。
この合意は人間が意思疎通を図る上で欠かせないものである。人間同士の間で何らかの共通認識がなければ、意思疎通を図ることはできない。この共通認識が多いほど人間は同じ共通認識を有する者同士で集団を形成する。集団を形成する上で必要となる共通認識は各々の集団によって異なり、この差異は集団が形成される位置がそれぞれ異なることから生じるものである。この差異もまた、多様性を生む。
共通認識とは、不規則な変位に見出される型とそれが指示する「何か」が同じ時機を得た上で関係しているという合意のことであり、関係とは、ある基準位置を中心として定めた位置の変化の中で、その基準位置を中心として相対することである。集団が形成される位置がそれぞれ異なるということは、この一連の過程が発生する場所ないしは位置が異なるということである。
このことは、人間の集団間における共通認識に差異が生じるということを示している。人間界において知られる相対主義が、道徳や倫理といった普遍的価値を否定し得るものであり、そもそも異なる立場によって事実も異なるということではないかとして、批判されてきた理由である。
これは部分的には的を射ていると思われる。しかし、すべての存在が相対的であるということはもちろん、この指摘の存在に対する相対的存在があるということである。そもそも、こうした議論が可能であるという点が既に、ある程度の反証となっている。 議論可能ということは、異なる立場間で共通認識があり、そうした立場において意思疎通ができるということである。
そもそもなぜ、人は事実や普遍的価値を必要とするのか。第四章において、規則性のある変位によって存在する自己が、外部の存在である他者に依存するためには、他者を規則性のうちに縛る方が依存しやすいというように考えることができるということを述べた。
相対的存在である人間は、各々が互いに依存、ないしは関わりを持って生きている。各々が互いに関わりを持って生きている人間にとって、関わりを持っている相手との間にある共通認識が変わりやすくては、日常において様々な弊害が生じてしまう。例えば約束の時間にどこかへ出かけようというときや、ある時間にある場所で会議を行うというとき、そこに時を刻む時間や、約束という事実ないしは決まり事といった普遍性がなくては、どこかへ誰かと共に出かけることも、ビジネスのために会議を行うということもできない。
このことは、事実や普遍的価値は相対的に存在する各々の人間が関わりを持つということにおいて、求められるものであるということを示している。
もちろん、人間界において、これまで議論されてきた相対主義における普遍的価値とは、多分に政治的要素を含んでいる。政治とは主に国内に住む各々の人間の利益を調整することをいうが、相対主義における普遍的価値が政治的要素を含むとき、それは異なる国々の間における国際政治のことをいう。この章は、これ以上のことは言及せずに、ここで終わりとする。
感覚と知覚 (Sensation and perception)
人間は外部からの情報を得るとき、五感と呼ばれる手段を用いる。五感とは、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚からなり、それぞれ異なる仕組みの器官により働くものである。各々の器官に共通しているのは、どの器官も外部からの振動を得るということである。振動とは、ある基準位置を中心とすることができる位置の変化が繰り返される行為であり、規則性のある変位である。外部の他者である不規則な変位は、多くの異なる規則性のある変位が共振することによって形成される。この不規則な変位の中から規則性のある変位を読み取ることで、外部からの情報を得ることが五感の働きである。
人間は五感のほかに知覚と呼ばれる手段を持っている。五感は感覚とも呼ばれ、知覚とは区別される働きである。知覚は外部からの情報を得るだけでなく、得られた情報を基に新たな情報を生み出す働きがある。
知覚が感覚と区別される理由はここにある。感覚は不規則な変位である他者から選び取った規則性のある変位を直接得ることであるが、知覚は感覚で得られた変位を基に新たな変位を得る働きである。感覚とは外部の他者に対してより直接的に働き、知覚はより間接的に働くものである。
感覚と知覚のもう一つの違いは、意志による関与である。感覚は意志の有無に関わらずに働くものであるが、知覚はより意志の関与を必要とする。意志とは、規則性のある変位によって存在している我々が内に秘めている、不規則な変位ないしは動きを生むもの、または不規則な変位のうちに含まれるものである。知覚は感覚と比べて、より積極的に他者と関わりを得ようとする働きであり、自己が他者との調律をする上で生じる。
意志にもまた、二通りの働きの仕方がある。それは自己の制御下にあるものか、ないものかである。自己は感覚という働きによって、常に何等かの振動を他者から受け取っており、それは意志の有無に関わらない。その一方で、自己は他者との調律を必要とする。意志の下で五感により得られる振動は、同じく意志の下での調律が可能であるが、意志なく得られた五感による振動は、同じように意志による調律は難しい。意志なく得られた振動は、自己にとってはその制御下にないものであるためである。
このとき、自己の制御下になく、つまりは自己の意志によるものでない調律が生じる。これは無意志の働きであり、人間が無意識と呼ぶものである。
あとがき
ここまで私が書いたものは、人間が物理主義と呼ぶものである。このテキストは非常に大まかなものであり、もしかしたら多分に不正確なものを含んでいるかもしれない。そのうえ、人間は物理現象のみでは説明できないとする立場からすれば、無味乾燥な印象を与えるものであり、忌避されがちなものである。だからこそ、私にとって、それを書くことは非常に興味深いものであり、そのようなテキストの著作者であることは、うってつけであるかのように思えたのである。
このように物理現象を中心に書くと、お前には心というものがないのかと言われそうであるが、私にだって心はある。心があるばかりか、私は、すべての存在に心があると思っている。このような考え方を汎心論といい、これもまた、極端な考え方であるように思える。
第二章で私は、以下のような文を書いた。
―分割という行為と振動という規則性のある変位をもつ反復行為は、多層的に重なるほど複雑な生命活動を産み、少ないほど無生物ということになる―
ここで私が言わんとしたことは、すべての存在に心がありながらも、分割と振動が多層的に重なるほど複雑な心を生み出し、多層的でないほど、より単純な心を持つということを言いたかったのである。言いたかったのではあるが、言及できなかった。それは心というものが何であるのか説明ができなかっただけでなく、そもそも分割と振動によって、なぜ心が生まれるのかということを説明できなかったからである。
説明はできなかったが、全く考えがないわけではない。しかしながら、仮定的な前提を含む考えであったため、あとがきとして記述することにした。
何度も繰り返して書いたように、振動とは、ある基準位置を中心とすることができる位置の変化が繰り返される行為である。例えば、ある位置pにある一つの物体Aが何もない位置qへ移動するとき、位置qには物体Aが移動する前は何もなかったわけである、また、そうであるとする。このとき、もともと何もなかった位置qの空間は物体Aに占められ、物体Aに占められていた位置pには何もない。
ここで起きていることは、位置pと位置qにおける空間の肯定と否定である。物体Aによって空けられた位置pにおける空間は肯定され、物体Aが移動したことによって占められた位置qの空間は否定されたのである。
このことは、物体Aはその位置qにあることによって、物体Aは位置qにあって、位置pにはなく、位置q以外のどこにもないということを示している。位置q以外のどこにもないということは、位置qにあるだけでよい。物体Aが位置qにあること、そのことが心の基本単位である。
では、物体Aは位置qにあるということが心の基本単位であるとするならば、物体Aはどのように自らが位置qにあることを知るのだろうか。この答えを確認することはできないが、私の個人的な考えでは、物体Aはそれ自体では、自らが位置qにあることを知ることはできない。物体Aは位置qにあるということが心の基本単位であると書いたが、それは物体Aが位置qにあることを知っているということを含んではいない。あくまでも、物体Aが位置qにある、このことのみが基本単位となっている。
この続きを書きたかったのではあるが、最後に第二章における私の文を引用し、このテキストの幕引きとする。
―あらゆる存在は相対的である。このことは、存在はそれ自体としては完結していないということである。存在とは何かという問いは、それ自体が完結しているという前提に立つならば、その問いに対する答えは他者の存在なしにはない。あらゆる存在は相対的であるということは、存在自体とは何かという問いへの答えを導出しない一方で、存在がいかにあるか、存在するとはどういうことか、その在り様を問い、答えを導出することを不可能にするというものではないのではないだろうか。-
終
