善意と悪意、生と死、そのとき神とは

形而上・信仰

善意が悪意の裏返しであるとき、悪意の裏返しは善意だといえる。また善意の裏返しが無関心ともいえるとき、それは悪意にもいえる。なぜなら、悪意も善意と同様に、関心がある領域にあるからだ。つまり、無関心は善意と悪意とは別の層にある。

人は悪意が垣間見えれば、悪意に着地しやすい。善意もまた然りだ。これは人間の認識の問題だろう。人間の認識においては、どうしても境界線が必要になる。明確な線引きないしは定義が必要となる。だから、どちらかの極端な方に判断が陥りやすい。その中庸があればよいのだが、たとえば、善意に寄せた悪意、または悪意に寄せた善意など。悪意によって距離を測るということであり、極端な善意や悪意は人を誤解しやすく、またその意図すら壊しかねない。その中庸によって、曖昧さに開かれることになる。

断定的な定義は変化の余地を許さない。人が他者を定義するとき、他者という存在は変化の余地を奪われる。他者を定義するということは、その生の尊厳を奪う行為だ。一方で生きるという過程は、それ自体が曖昧だ。生誕という起点と、死という終点。死が静的な終点である限り、生とは生きるという動的な過程である限り、この両者は対極にあるものではない。だからこそ、人が他者を固定的に定義するとき、それは死に等しい。

神は人間をそのように定義したのだろうか?ここでの神が何を意味するのか?神が人間を定義した、おそらくそうだということはできる。人間とは生を受けて、死へと向かう動的な存在だ。神が何であれ、人と相対するものだろう。上にいようが、下にいようが、どこにいようが、またいまいが。でなければ、祈りをささげることも信仰することもできない。このとき、人間が動的な存在であるとき、神とは静的な存在か。それとも動的な存在か。あるいは全く同時に両方か、そうではないのか。いずれにせよ、そのような存在は人間の認識の手に負えるものではない。人間の認識では捕捉できない。捕捉することはできないが、その軌跡と相対することはありうる。だからこそ、人間は神を信仰できる。このとき、人間もまた、曖昧な生という過程にいる。このことはつまり、神という存在は、いるかいないかわからないのではなく、曖昧でなければならない、ということではないか。

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