あれは暗雲立ち込める日の朝だった。僕は起床すると、郵便受けをチェックするのが日課だった。外は分厚い雲空に覆われ、今にも雨が降り出しそうだった。僕はその日、将棋会所に将棋を指しに行く予定だった。将棋会所に集まる人達は強い人が多い。ほとんどが有段者で、僕は級位者だった。将棋では実力差のある人同士が指すとき、駒落ちというハンデを強い人が背負うことになっている。自分の持ち駒からいくつか駒を盤上から”落とす”のだ。将棋会所の人達は一般的に気難しく、怖い人というイメージがあるかもしれない。しかし僕の通ったことのある場所では、皆優しく、配慮のある人達だった。
ある日のこと、僕と手合いを組まれた人が「君は何段?」と聞いてきたので、僕は正直に「3級です。」とボソッと呟くように言った。するとその人は「僕は今日、何段だっけ?」と席主に尋ねた。席主とは将棋会所を運営している人のことだ。
「あなた?あなたは今日、三段だよ。」と席主が言った。僕は戦々恐々としながら、そのやり取りを聞いていた。いざ、指してみると1勝1敗。僕に1勝の花を持たせてくれた。そんなこともあって、たまにではあるが、僕はその将棋会所に通っていた。
あの暗雲は何かの象徴だったのだろうか。その日、僕はいつものように郵便受けを開けると、そこには黒い封筒が一通入っていた。僕は見慣れない封筒に面喰らった。すぐに出かける支度をしなければならない。しかしどうも、妙にその封筒の中身が気になってしまった。僕は封筒をビリっと開けた。黒い封筒の中には、手紙ではなく鍵が入っていた。見慣れない形の鍵だった。なんの鍵かわからなかったが、今は時間がない。僕はそれをポケットに入れると、将棋会所に向かった。道中、なぜか憂鬱な気分になった。
いざ、将棋会所に着き、手合いを組んでもらって指してみると、どうもおかしい。指し手がいつも以上に思い浮かばないのだ。僕は3連敗した。一息つこうと外に出て一服すると、煙のせいなのか、頭がやけに痒い。僕は思わず、ポケットに入れた鍵で頭をかこうとした。そのとき突然、ありえないことがおきた。
鍵が頭皮をすり抜け、頭の中に入っていった。僕は思わず、あっと叫ぶと鍵を引き抜いた。すると頭がどんどん重くなっていった。僕は恐怖とその重さに耐えかねたが、頭の重さが勝った。試しに恐る恐る、鍵を頭皮に押し付けてみた。やはり鍵は頭皮をすり抜ける。その時、頭がとても軽くなるのを感じた。僕は思い切って、エイッと頭に鍵を入れた。ある程度の深さまで入ると、そこで止まった。鍵の全部が入るわけではなかった。そうか、と僕は気づいた。これは鍵なのだ。僕は鍵を回してみた。すると、カチャッと音がした。
その瞬間、僕の頭の中で一気に記憶が溢れ出した。これまで読んだ棋書の中身や対局の棋譜から、初めてひらがなを覚えたときまで、すべての記憶が頭を走馬灯のように駆け巡った。僕は驚いて声を上げると、鍵を反対方向に回した。走馬灯は収まった。鍵を引き抜くと、僕は息を荒くして、それを見つめた。これはいったい何の鍵で、誰が僕に送ったのか。もしかしたら、記憶の扉を開ける鍵なのだろうか?
僕はその鍵を見つめた。この鍵があれば勝てるかもしれない。無言のまま、その場に佇んでいた。しばらくして、深くため息をつきながら黒い封筒を取り出すと、僕は鍵を元に戻した。

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