私は先日投稿した自己紹介記事に、言葉の余白を見つめながら物語や思索を綴るということを書きました。私の作品は随筆であれ、物語であれ、そのように書かれていると思います。今後もこの作風が大きく変わるということはないでしょう。今日はなぜ私がこのような作風にこだわるのかをお話ししたいと思います。
言葉とは不思議なものです。例えば「日本の夏は蒸し暑い。」と書いたとき、この言葉たちに含まれる内容は、日本における夏の湿度が高く、また気温が高い、ということです。ここから続く文章は多岐に渡ります。日本の夏は蒸し暑い、だから、汗をかきやすい。また、日本の夏は蒸し暑い、だから、風鈴の音は美しい。因果関係にこだわらず、日本の夏は蒸し暑い、けれども、夏のサウナも最高だ。あるいは、日本の夏は蒸し暑い、けれども、夏が好きだ。等々。サウナと夏好きに関して、けれども?いや、だからこそだろう、と思う方もいるかもしれません。
このように「日本の夏は蒸し暑い。」という言葉から連想されるものは、読む人によって異なります。異なるけれども、それを言葉にした途端に、そのような分岐は失われていきます。私がここで「日本の夏は蒸し暑い、だから、制汗剤は必須だ。」と書けば、ここでの日本の夏は、制汗剤が必要な季節だ、という意味に限定され、そこから生じる分岐も狭まるでしょう。一方で「日本の夏は蒸し暑い、けれども、それがいい。」と書けば、たんなる独白になります。言葉は表現の手段です。コミュニケーションにおいては言葉を並べるに従って、自分の伝えたいことに伴って、言葉による表現は意味をより狭めていく行為となります。これは特にビジネスや、事務的なコミュニケーションにおいて顕著でしょう。例えば「そこにあるペンをとって。」と同僚に頼むとき、指をさしたり、または同僚が「どれ?」と聞き返せば「その赤い本の上にあるペン。」などと言葉を足すことで、その意味を限定することができます。このようなやり取りは仕事場に限らず、学校や家庭でもあり得る、しかし事務的なコミュニケーションといえます。
より意味を狭めていく言語表現を事務的なコミュニケーションとすれば、意味を狭めずにより広げていく言語表現を創造的なコミュニケーションといえそうです。「日本の夏は蒸し暑い。」から様々な分岐が想像されるように、意味をより限定しない言語表現の方が物語などの執筆において様々な可能性が広がるでしょう。先述した「日本の夏は蒸し暑い、けれども、それがいい。」これはたんなる独白ではありますが、意味を限定しているわけではありません。何がいいのか、説明がされていない。だからこそ、物を語り始める余地があるというわけです。
もっとも、これらのことが、なぜ私が言葉の余白にこだわるのか、その最たる理由というわけではありません。これらを踏まえることが、これからの説明に必要だったのです。
より意味を限定するということは、言葉を用いて自分の伝えたいことに読者を誘導するということでもあります。結論を述べますと、私はこれを嫌ったのです。言葉に余白を持たせることは私にとって、言葉による意味の限定からの解放であるということです。
人は言葉を持つ生き物です。言葉によって自らの意思を伝えようとし、また言葉を受け取ることで、ほかの人達の意思を理解しようとします。生きている限り、言葉による表現から逃れることはできません。言葉を発すること、語るということを必要とするのです。そのなかで、どのようにして自分の言葉によって自らの意思を伝え、またその言葉によって縛ることを避けるのか、その塩梅を模索すること、これが私にとっての創作活動の意義であり、おそらく生涯をかけて問い続けていくものだということです。
