彼女はそこにはいない。今、彼は自宅のPCの前に座っている。今この瞬間、別の誰かが彼女のことを考えていることはあるだろう。その誰かが彼女の隣にいようといまいと、彼が今いる場所は自宅のPCの前である。彼女が彼の心のなかにどのような形でいようとも、それが彼女だとどうしていえるだろうか。心とは何で、どこにあるのだろうか。
このとき、彼女のことを考えている彼がその隣にいるとしたら、彼の心のなかにいるのは彼女だといえるだろうか。たとえば彼女が欲しているものがゲームではなくて対話であるときに、彼がゲームをしようと提案する。このとき、「対話を欲する彼女」と「隣の彼の心のなかの彼女」が同じ彼女だといえるだろうか。それは隣にいる彼女ではなくて、”その隣にいる彼”という心をとおして見ている彼女ではないか。しかし自宅のPCの前にいる彼と、彼女の隣にいる彼を比べたとき、より彼女に近いのは隣にいる彼である。少なくとも、物理的にはそうである。
物理的距離が近ければ、よりその人に近いということは常に言えるだろうか。この近さが物理的距離だとして、それが心の距離と常に等しいとは限らない。たとえば一組の男女のカップルがいて、それぞれが別の職場で働いているとき、その男女の心の距離の方が職場の同僚よりも近いということは十分あり得るし、またそうではないときも考えられる。
このように心の距離とは、たんなる距離のことではなくて、関係の重要度の違いだといえるのではないか。関係の重要度の違いとは、当事者にとっての感情的・心理的な優先順位のことである。別々の職場で働く一組の男女の心の距離が職場の同僚よりも近いように思えるのは、その男女のカップルとしての関係がその男女にとって大事だからである。またそうではないときは、職場の同僚同士の方がカップルとしての結びつきよりも大事だからだ。
しかしこのことは、関係の重要度の違いのみが心の距離というものを為すのだろうか。たとえば職場の同僚同士の会話で仕事に関して熱論を交わすときと、カップル間でのデートに関する話題が同種の熱量で語られるかというと、そうとも限らない。
心の距離とは関係の重要度ではなくて、関係の在り方の違いではないか。関係の在り方とは当事者間のコミュニケーションや相互の態度を指す。たとえばカップル同士でいるときの態度と、仕事に向かうときの態度はもちろん異なる。
もちろん異なるとは書いたが、ここでも疑問を呈する余地はある。仕事が恋人だという人はどうだろう。まるで自分の恋人と向き合うように、仕事にも向き合う人がいないということはできない。
しかしこのことは、心の距離というものが関係の在り方の違いであることを否定するものではない。自らの心において、自分の恋人でも仕事でも、どのようにして関わっているかが、心の距離ないしは関係の在り方というものを為しているということができる。関係の重要度の違いもまた、関係の在り方の一つを示すものともいえるだろう。
心の距離とは関係の在り方であり、またその距離が関係の在り方に基づくものであるとき、心とはいったいなんなのか。私達が心を意識するとき、何かを考え、また想っている。デカルトは「我思う、ゆえに我あり。」という言葉を残した。しかしそこにあるのは「我」単体ではなくて、その「我」と「我」が思う何かとの関係があるのではないだろうか。心とは「我思う」からあるということはできるが、「思う」ということは関係的である。思うからあるのではなく、誰かや何かを思うからある。心とは関係の在り方に宿り、それは誰かや何かとの出会いのなかで立ち現れるものだ。
